「満蒙開拓団」関連の文献解題──読者からの問合せへの回答

筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

 8月26日upの「朝日新聞8・15キャンペーン批判」の中で、角田房子『墓標なき八万の死者』を紹介したことで、読者から、「満蒙開拓団」関連の文献解題をして欲しいという手紙をもらった。この手紙を見ながら、“1945年満洲の阿鼻叫喚の生き地獄”につき、これまで失念していたことをふと思い出した。満蒙開拓団を含め在満洲一般邦人の地獄史は、①これから三十年以内に日本列島上で起きる事の近未来の歴史の映像・光景であって過去の歴史ではないと、これまでかなり注意喚起してきたつもりだが、もう一つの警告を忘れていた。

 ロシアと中共は、1992年から既に三十年近く、“1945年満洲の阿鼻叫喚の生き地獄”を日本列島に再現させるべく、十七年間(1928~45年)の満洲に絡む“逆走と暗愚の日本の対外政策”を研究し、日本にそれを繰り返させ、②近未来に、日本みずからが“1945年満洲の阿鼻叫喚の生き地獄”に向けて爆走するよう、日本の新聞テレビ完全支配を通じて、日本を誘導し煽動している。この戦慄するほどに恐ろしい現実を直視せよ/気付けよと、日本人に警告するのを忘れていた。

 霞が関の赤い官僚も赤い学界も赤い新聞テレビ出版界もすべて、ロシアと中共の完全支配下にあり、両国に操られるままに、日本人がみずから“1945年満洲の阿鼻叫喚の生き地獄”に爆走しているのを気付かせないようにしている。「ここ三十年以内に、一億日本人を集団自殺と日本国滅亡に追い込む」ための、ロシアと中共が奏でる(朝日新聞やNHKを通じて)“ハーメルンの魔笛”に、日本人が覚醒し払拭できる特効薬が一つだけある。“満洲の1945年の生き地獄”に至った歴史を省察し、1928年から1945年に及ぶ十七年間の、日本の狂った逆走対外政策(外交と軍事)を歯噛みしながら自省・自戒すること、それが日本人が日本を取り戻す唯一の選択肢である。

Ⅰ、徹底検閲で(ソ連軍侵略で発生の)満洲一般邦人の“地獄”に関する学術研究はゼロ

(1) 満洲におけるソ連軍の蛮行と関東軍の通謀という歴史事実を抹殺すべく、異常な共産党検閲

① ロシアの満洲における日本人大量殺戮に関するロシア軍の空前絶後の蛮行の歴史について、一般日本人の共通知識となるのを阻止するため。

② 関東軍総参謀部の松村知勝/瀬島龍三らは、ロシア軍と通謀していたというより、スターリンのロシア軍それ自体になりきっていた。この祖国叛逆の恐ろしい実態が暴かれないようにするため。

③ 厚生省引揚援護局は、設置と同時にソ連NKGBの直轄機関であり続けた。その日本側リーダーが、レイテ島で10万人の将兵を餓死殺戮した“コミュニスト陸軍大佐”美山要蔵(戦時中GRU、戦後KGB)。このため、シベリア強制連行の歴史と満洲一般邦人の大量殺戮の歴史については、美山要蔵の引揚援護局が、学界と連動して、日本国民の歴史から抹殺した。今に残る美山要蔵が捏造した歴史偽造の一例が、シベリアで殺戮された日本人の数は「六十万人」が正しいのに、十分の一の「6~7万人」が流布しているではないか(注1)

 美山要蔵は、靖国神社を潰すために、仏教の千鳥ヶ淵墓苑(無縁仏の墓)をわざわざ、靖国神社の傍に建立した。このことは、建立当時では誰でも知っている常識。美山要蔵の遺志を継いで、「政府は千鳥ヶ淵で戦没者の慰霊を行い、靖国神社での慰霊を廃止しよう」と大音声で喧伝したのが、北朝鮮人の土井たか子(李高順)であった。

(2)具体的な文献リスト(一部。最低でも百冊以上あるようだ)

○満蒙開拓団関係──ほとんどが、この地獄を体験した方々の鎮魂の体験記か、それらのまとめ。

・角田房子『墓標なき八万の死者』、番町書房。

・中村雪子『麻山事件―満州の野に婦女子四百余名自決す』、草思社。

・小林弘忠(共産党員)『満洲開拓団の真実』、七つ森書館。

・新井恵美子『少年たちの満洲―満蒙開拓青少年義勇軍の軌跡』。論創社。

・合田一道『死の逃避行』、富士書苑。*富士書苑の社長(故人)は、反共反ソのヒューマニストだった。

・山田健二『満蒙開拓少年義勇軍』、「満洲叢書」第七巻、国書刊行会。

・加藤聖文『満蒙開拓団』、岩波書店。例外的な学術書。

・全国拓友協議会『満洲開拓史』増補版、1980年。

(上記以外の)在満洲邦人を襲った地獄の体験記。ほんの一部。冒頭五冊は必読入門書。学術書はゼロ。

・ポール・丸山『満洲―奇跡の脱出』、柏艪社。NHKがドラマ『どこにも無い国』を製作し、2018年3月放映。

・大櫛戊辰『殺戮の草原 葛根廟事件の証言』、東葛商工新聞社。

・文藝春秋編『されど、わが《満洲》』、文藝春秋。

・『秘録 大東亜戦史』、富士書苑。(備考)「戦史」は“戦闘史”の意味に限定された学術用語。謬語「戦史」を内容に忠実な言葉「戦争直後の引揚史」に糺して、『秘録 大東亜《戦争直後の引揚史》』とすべきである。

・『凍土からの聲』、謙光社。

・若槻泰雄『戦後引揚げの記録』、時事通信社。

・宮下二郎『葫蘆島へ』、「満洲叢書」第四巻、国書刊行会。

・井上卓弥『満洲難民』、幻冬舎。

・『満ソ殉難記』

・満蒙同胞援護会『満蒙終戦史』、河出書房新社。

○満洲における(ロシア兵ではなく)支那人暴民・中国共産党軍による邦人殺戮

・佐藤和明(共産党員)『通化事件』、新評論。

○38度線以北における朝鮮半島邦人の地獄図

・清水徹『忘却のための記録』、ハート出版。

Ⅱ、“スターリン直轄軍隊”関東軍の研究は検閲がもっと厳しく、75年間で論文ゼロ

(1)東アジア共産化に関する、スターリンの全体計画

① 東アジアの「反共反ソ」三大傑出figure「張作霖、蒋介石、昭和天皇」を殺害せよ!

 張作霖は、スターリンみずからが指揮して列車ごと爆殺(1928年)。蒋介石は、近衛文麿に命じて日本による対支那戦争で殺害することにした。「昭和天皇暗殺」は、1936年2・26事件と1945年8・14宮城クーデタの二回(ともに未遂)。スターリンは、前者では若手共産主義将校に、後者では阿南惟幾と平泉澄の両名に命令した。後者の実行犯は陸軍省軍務局のエリート将校。

② 東アジアの“最高戦略要地”満洲から日本を追放し、それを毛沢東に渡せ!

 この方策の第一が、近衛文麿の独断による対支那戦争(蒋介石の国民党との日中戦争)(日本の対ソ防衛に寄与する)地政学からの「満洲帝国」論の石原莞爾は、近衛文麿のプランに満洲対ソ献上論が秘められているのを見抜き猛反対。風見章(内閣書記官長、『共産党宣言』が座右の書なのは当時も有名)と武藤章(参謀本部作戦課長、毛沢東のスパイ)と東條英機(関東軍参謀長、近衛周辺で唯一例外的に非コミュニスト)が、近衛文麿の意に従い、石原莞爾を追放し、引退に追い込む。風見章も近衛文麿も、スターリンの命令に絶対の、河上肇の愛弟子で稀代のコミュニスト。東條英機は陸軍大臣になりたく、何でもかんでも近衛に「yes」だった(注2)

③ 日本を対英米戦争に突入させよ!

 この第二方策が、日本をして米国/英国に戦争させること。近衛文麿はスターリンのこの命令通りに、これを御前会議で決定した。そして、責任回避のため、直ちに、総理の座を“超アホ馬鹿”東條に譲った。その直前、近衛は1941年7月にサイゴン入城を決行し、英米蘭との不可逆の戦争前夜情況をつくった。

 対英米戦争は、日本陸軍の満洲防衛力を完全に削いでしまった。1944年末の関東軍は、従来の戦力に比し三分の一。しかも、ソ連軍から満洲を防衛するには、最小限、従来の戦力の倍は不可欠。それは支那大陸の南部と中部に展開する陸軍兵力を、(現役の戦闘部隊だから二ヶ月もあれば現地演習もでき、簡易陣地も造れるから)1945年1~5月までに急派すれば可能だった。が、関東軍参謀部も東京の陸軍参謀本部も、これを一秒も検討していない。双方ともGRUのスパイ将校のみが占拠していたからだ。

(2)研究すべき各テーマ

A、1928年の張作霖爆破事件。三両目の天井に爆弾を設置。GRU工作員で共産主義者・河本大作は、真相の隠蔽・撹乱のため、自称「犯人」を買って出た。河本大作の妻の弟(売れない共産党員作家)が、共産党員・瀬戸内寂聴の最初の夫。戦後の現代史学界は、既に九十年間も、解っている真犯人(ソ連GRU/NKGB工作員+河本大作の部下)隠蔽の嘘歴史づくりに邁進。

B、1931年の満洲事変も、蒋介石・国民党政府と日本との確執と対立を醸成すべく、背後のスターリンとその命令に従った関東軍の赤色将校の蠢きが、石原莞爾を除き、ありあり。

C、“スターリンの操り人形”松岡洋右の、1933年国際連盟脱退がスターリンの仕業であること。

D、1943年頃には、関東軍参謀部は、モンゴル・トムスクに巨大な対満洲大侵攻基地が建設されたのを知っていたが、それを関東軍全体に秘匿し続けた。関東軍七十万人の前線部隊が、この興安嶺山脈の西に巨大侵攻基地があるのを知るのは、1945年8月9日以降。

E、「1945年8月にソ連軍の満洲大侵攻あり」は、常識でも明らかだったし、「侵攻は、7月末~8月末」と参謀部に具申した情報将校は多かった。それでも、関東軍参謀部を牛耳る松村知勝と瀬島龍三は、最後の最後まで一般邦人への避難命令を出さなかった(注3)。避難命令を出したのは、(実態は、関東軍の下部機関だった)開拓総局の地方庁で、ソ連軍の侵攻後。

 松村と瀬島は、人類史上の残忍残虐な自国民大量戮殺の鬼畜である。昭和天皇は、1983年に中曽根康弘・首相が瀬島龍三を重用したことに御激怒なされておられる。

F、松村と瀬島は、戦後も、満洲一般邦人(主に婦女子)25万人以上が地獄のような情況下でロシア兵に殺戮されたことについて、一言の反省の弁すらない。彼らと同じく、満洲のスターリン様への献上に動いたGRU工作員の草場辰巳(中将)は、この犯罪からの慚愧で自殺した(1946年9月20日、狸穴のソ連政府代表部内の宿舎)。松村と瀬島はケロッと天寿を全うした。

 なお、草場辰巳の遺書三通の全文公開を含め、草場に関する研究論文は全く無い。草場は、スターリンの命令「日本人婦女子十万人以上を性奴隷に提供せよ。避難列車を出さず満洲の荒野に放置せよ」に従い、避難民用の列車を出さなかった。草場は、ソ連軍が日本の売春宿のようなものをつくると思って協力した。が、実際は、数万人の日本女性がトラックに載せられ連行された後、帰還していない。三日三晩、一睡もさせてもらえず一食も与えられず、一人平均百名以上のロシア兵にレイプされ死んだ。そして、ゴミとして捨てられた(注4)

 彼女たちの乳幼児も児童の数万人も、ことごとく餓死した。子なしの支那人夫婦が、路傍に横たわる日本人の幼児・児童を引き取ったが、これで救われたのは2%未満だろう。少なくとも草場は、シベリアに入露する前、三ヶ月間ほどは新京(→通化)に居たので、この婦女子と乳幼児・低学年児童の地獄の惨状は詳細に報告を受けていた。草場は札付きの共産主義者だったが、松村や瀬島と異なり、一抹の人間性が残っており、同胞婦女子への罪に苛まれ自殺した。

G、松村と瀬島は、新京(→通化)で三ヶ月間、満洲の日本人婦女子が大量に“非業の死”を遂げている惨状の報告を受けながら、苦にした様子は皆無。ソ連軍に抗議すらしていない。サイコパスの共産主義者らしく、その地獄の光景を快楽していたからだ。松村と瀬島の“戦後の発言”をすべて集め、この同胞25万人婦女子殺戮の地獄についての発言が一文字も無いことを証明する研究論文がないのはどうしてなのか。

Ⅲ、結語

 学界・出版界の検閲で、戦後の日本人が盲・聾にされた“満洲ソ連軍侵略”という最重要な日本の歴史は、日本国が今後も生存したければ、隠蔽された地下深くから再発掘しなければならない。

                                     (2019年9月6日記)

 

1、美山要蔵の命令で厚生省引揚援護局がデッチアゲた嘘数字は、『満洲・北鮮・樺太・千島における、日本人の日ソ開戦以後の概況』(1959年5月刊)で、シベリア強制連行は「57万5千人(20頁)とする。いずれ学術論文として発表するが、シベリアに強制連行された数は「107万人以上」が最も正確な数字(実は、この数字は、引揚援護局の良心的役人がこっそり残してくれた改竄前の数字)。ロスケ美山要蔵が独裁していた厚生省引揚援護局は犯罪的に「50万人」少なく作為した。

 上記本の38頁は、シベリアで死亡した人数を「7万人」としている。とすれば、「100万人」が帰還したはずだが、厚生省『続々・引揚げ援護の記録』1963年版では、「帰還者は47万2973人」だから、「107万人以上―47万3千人=60万人死亡」となる。「シベリアでの日本人死亡者は六十万人」が、最も正確な数字と断定できる。

2、内務省特高警察が、1941年10月、ゾルゲ事件で近衛文麿を逮捕しようとしたのを、東條英機は「自分を念願の総理にしてくれたから」と介入し、それを阻止した。このため、尾崎秀実と近衛文麿の間の伝書鳩を務めていた“朝日新聞社の重役”田中慎次郎(尾崎と同期入社)の逮捕が消えた。

3、政府の公刊戦史である、戦史叢書『関東軍2』は、関東軍が一般邦人への避難命令を出さなかった(弁明ならぬ)屁理屈・詭弁が書き連ねられている。執筆者は、関東軍参謀部にいた「極左ロスケ」将校なのはわかるが、具体的な名前を特定していない。1980年代前半、防衛研究所戦史室には知人も多く、その時、聞いておくべきだった。「《あとで》は、いけない」と今、猛反省。

 どういう悪魔の詭弁か。嘘詭弁の第一;「日本に還送するのは船腹の不足からできなかった」。第二嘘詭弁;「開拓団も、後退(避難)を潔くしなかった」。第三嘘詭弁;「関東軍が退却していることを開拓団は知らず、関東軍が存在していると勝手に思い込んで安心していた」。以上、『関東軍2』、353頁。私は、1981年、これを読んだ時、関東軍参謀部の赤いロスケ将校とは、“血も涙も一滴も無い最残忍な悪魔”だと怒りに怒髪天を衝いた。素人でも反論できるが、それはこうなる。

① 北満洲の一般邦人は、1945年7月に入ると、男性は根こそぎ徴兵され、女、子供、老人ばかりになっていた。故に、この根こそぎ徴兵と同時に、北満開拓農民の婦女子をハルビン以南の南満洲鉄道沿いに避難させるのは、邦人保護義務を負う在外軍の絶対常識。つまり、論点は、なぜ「1945年7月下旬までに」「ハルビン以南への避難命令をなぜ出さなかったのか」である。引揚げ後の満蒙開拓団の人々の中で、「日本本土になぜ還送しなかったのか」と、突飛な抗議をした者は一人もいない。

② 「関東軍が壊滅している/退却する」とかは、関東軍こそが在満邦人に連絡すべきで、電話も無い辺鄙な農村に居る開拓農民が、どうしてわかるというのだ。彼らが、自分たちの居住地が大戦場のド真ん中だと知ったのは、進撃してくるソ連軍の戦車の音や大砲によってである。その時初めて、関東軍がもぬけの殻で、どこにも存在しないことを知った。関東軍が開戦以前も開戦後も避難命令を出さなかった事実は、関東軍が在満一般邦人を、スターリン皇帝様のソ連軍に“皆殺し”させようとした意図の存在を証明する。

③ 開拓農民の婦女子で、関東軍と運命を共にすると考えたものなど一人もいない。柴田勝家が北ノ庄城で割腹した時にお市の方がお供したが、そんな話に、関東軍の満洲邦人“遺棄・皆殺し”の大犯罪をすり替えている。イメージ操作だ。

 関東軍の各部隊の基地は、開拓農民の村とは遠距離にあり、開拓農民が関東軍の基地内に到達すること自体、全く不可能。しかも、上記戦史叢書の大嘘「開拓団も、後退(避難)を潔くしなかった」は、“ヤクザの大言壮語屋”ミスターKの嘘歴史講座よりひどい。なぜなら、関東軍は北満の邦人に「避難せよ」とは一言も伝達していないから、満蒙開拓団に残る婦女子が「避難せずに軍と闘います」と言うこと自体が不可能。

 そもそも、関東軍の主力部隊は、1945年10月から、北方向のシベリア鉄道にいったん入り、ナホトカに行き、そこから日本に送還すると言われ、嬉々として貨車に乗り込み、シベリアへと連れ込まれた。関東軍が一般邦人を遺棄し“皆殺し自由”をソ連軍に認めたことは明か。

4、この一例を挙げる。東満洲に位置する方正収容所には、関東軍に棄民された北満開拓民を1946年5月までに8640人を収容した。うち、餓死・凍死・病死が2360人。さて、現在の日本人が知らない驚くべき数字が、次。ソ連軍がやってきてトラックに乗せ強制連行した女性460人は、全員帰ってこなかった。加藤聖文『満蒙開拓団』、206頁。

 ソ連軍のレイプが、殺人を伴わなくなるのは、1946年春以降で、それまでの半年間は「ロシア兵からのレイプは殺人と同一だった」。在満洲の高等女学校の生徒(12歳から17歳)は、全校生徒丸ごと強制連行され、ほぼ全員がレイプで殺害された。引揚げ港の佐世保港でも博多港でも、高等女学校の生徒は目撃されていない。

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