筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
今般、日本の一般大衆は、侵略ロシアに対し拳を振り上げ糾弾し、主権を侵害され国土を蹂躙されたウクライナに義憤の同情/可哀そうの慈しみの情愛を傾注し、少しばかし道徳的とはいえる女性的な感情を発露した。このことは、手離しで評価しなければなるまい。また、グレンコ・アンドリー氏とナザレンコ・アンドリー氏というウクライナ知性二人を、“ニューKGBロスケ”橋下徹の赤い罵詈讒謗舌から守り抜いたネット一般大衆の功績も、惜しみない拍手と讃辞に値しよう(附記)。
が、これが一般大衆の限界。一般大衆は時として健全な感情を横溢させ、日本国に健全性を覚醒させるが、そう遠くない時期に花火線香と消え、必ず一過性で幕を閉じる。大衆感情はいかに正しくとも、国家的な倫理道徳精神や国策に発展することはない。感情と精神とは、多少の連続性はあるが、同一ではない。
第一の例。日本は、今般のウクライナの悲劇と勇敢なる国防魂を教訓に、国防政策の根本を全面的に転換し、憲法九条への「国防軍」明記や陸軍力平時三十五万人態勢/有事動員百万人態勢を構築しなればならないのは焦眉の急。この有事動員百万人のために、軍用ライフル銃二百万丁の生産と大学・高校における軍事教練の導入などが不可欠。だが、この当り前の主張をなしたのは、日本人は一億人もいるが、今なお中川八洋一人だけなのを、どう解釈すべきであろうか。